宮本武蔵の足跡をたずねて
(京都編)


 およそ半年間、このコーナーを更新していなかった。 愛車CD90にはほぼ毎日乗ってはいたのだが、何かとバタバタと忙しく、ゆったりとツーリングを楽しむ余裕から見放されていた。けれどもやっとのことで、このゴールデンウィークに、京都を散策することができたのであった。


 5月4日の朝、颯爽と京都に向けて出発する。 京都まではいつもの通りのコースで、大阪府能勢町・京都府亀岡市を越えて五条通に入る。さすがにGW中とあって、京都市街の交通量は非常に多い。堀川通りにはいると、もう車と人とがウジャウジャしていて腹が立つほどである。事故を起こさないように気をつけながら、北大路を走り、一乗寺下り松に向かう。


 今回はこの近辺の散策が目的である。というのも1週間ほど前の新聞記事の特集に、宮本武蔵の足跡を訪ねてということで、このあたりを紹介したものがあった。 今年の大河ドラマにより、作州や播州の生誕地をはじめ、決闘の地などが一躍、脚光をあびている。このあたりは武蔵が吉岡一門と決闘をした場所として、訪れる人が特に多いところである。

 そもそも宮本武蔵という人物は非常に謎が多い人で、史実として信用できるのは、文章にしてわずか100行に満たないほどだというのを聞いたことがある。生まれた場所にしても岡山か兵庫か、いまだに決着がついていないし、世紀の対決である巌流島の戦いの相手、佐々木小次郎にしても、とうに70歳を越えていたのではないかという説もあったりして、本当のところは誰にもわからない。そしてそのほとんどは、吉川英治の筆によって作り上げられた虚構だということである。まあそんなことはよくあることである。かつては徳川家康でさえ、嫌なタヌキジジイと思われてたのに、近年の研究の成果、家康は経営の大天才だったという説が有力であるらしい。まあ、評価というものは後の時代の人間の勝手な解釈によって、様々に変化するもののようである。


 という私もその『吉川武蔵』の読者の1人で、何度も何度も読み返したものである。そもそもは小学校6年生のとき、たまたま本屋で見かけたことがきっかけで、全巻読んでしまった。今思えば、ませたガキだったのかもしれない。でもその武蔵著の「独行道」のなかの『我事において後悔をせず』とか『仏神は尊し仏神をたのまず』などという言葉は、その後の私の人生に何らかの影響を与えたのではないかと思う。ただ、『恋慕の道思ひよる心な』なんて言葉は、私の人生においては全く相容れないものではあるが……。


 まずは一乗寺下り松を見る。かつてこの場所は比叡山につづく街道の分かれ道だったらしいが、今は当然のことかもしれないが、全くその面影はない。たしかに松の木は植わっているが、これは現在は4代目の松とのことである。2〜3枚、記念写真を撮る。

 この地において、室町時代の剣法指南役の吉岡一門との決闘が行われたらしい。吉岡清十郎・伝七郎兄弟に勝ったあと、遺恨を持つ門弟数十人に、たった1人で立ち向かったということだが、このときの壮絶な戦いの中で思わず大小二刀を用いたのが二刀流のきっかけだとも言われている。この松を見ながらイメージしてみたが、どうもイメージが湧いてこない。そりゃ、前には観光客相手の漬物屋があり、隣は住宅建設中なのだからイメージせよといっても無理がある。写真撮影を済ませたら、狸谷山不動院へと向かう。


4代目「一乗寺下り松」 狸谷山不動院 武蔵の滝


 狸谷山不動院は、現在は交通安全に御利益があるところである。かつて滋賀県に住んでいた頃、オヤジの車には、ここのお守りのステッカーが貼ってあったのを記憶している。およそ250段の階段をゼイゼイいいながら登っていくと、清水の舞台のような本殿があった。そしてその向かいに、『武蔵之滝』がある。といっても、現在は小さな滝だが、かつてここで武蔵は吉岡一門と決闘する前に、滝に打たれながら不動心を得たと言い伝えられている。軽く参拝してから、かつてオヤジがつけていたのと同じステッカーを買って、下山する。


 次に、そのすぐ下手にある「八大神社」に参詣した。ちょうどこの日はこの神社の祭りということで、御輿が出ていた。この神社も武蔵との関わりがあると言い伝えられている。吉岡一門との決闘の直前に、ふとこの神社の前を通りがかった武蔵は、 何気なく手を合わせたそうだが、 そのときふと、自分は一体何を頼もうとしたのかと、自問自答したらしい。そこでこの神社は『宮本武蔵開悟の地』として知られることになったそうである。そして境内には、当時の一乗寺下り松の古木が保存されてあった。そしてそのときに『仏神は尊し仏神をたのまず』の言葉が生まれたということである。


 さて実際に訪れてみると、まず入り口の品のない看板がやたらに目に付く。そして「武蔵」という名前を付けたら売れると思っている便乗組の土産物屋が、ボリュームをガンガンあげて、大河ドラマのテープを流している。ちょっとゲスッぽいよ。まあ神社としては立派でおごそかなものだったが、武蔵の銅像がどうもいけない。聞くところによると、昨年の10月に建立したそうである。NHK大河ドラマ放映が決定して急遽こしらえたものに、ありがたみがあろうはずがない……。


 そのあと、すぐ隣の詩仙堂に立ち寄る。 美しい庭園で有名なところである。 庭に面した部屋で、大勢の人が座ってくつろいでいたが、私もその部屋に陣取り、柱にもたれて庭を眺めていたが、なんとなくゆったりとした時の流れを感じて、思わず眠ってしまうぐらいのゆったりとしたひとときを過ごした。その後、庭園内を散策する。


八大神社……看板が・・・。 二刀を持つ武蔵像 詩仙堂@ 詩仙堂A


 おおよそ今回の主たる目的地を巡ったので、『武蔵まんじゅう』という土産を買ってから、この地を離れることにする。といっても来た道を戻るつもりはない。 せっかくだから、もう少し、武蔵にゆかりのあるところを訪ねてみようと鷹峯を通り、京見峠越えをすることにした。


 鷹峯には『光悦寺』がある。徳川家康が本阿弥光悦に与えた土地らしいが、光悦はそこに一族縁者をはじめ、いろいろな工芸職人とそこに移り住み、芸術村をつくったらしい。もともと本阿弥家は刀剣の鑑定・研ぎ・ぬぐいを家業とする家柄だったらしいが、光悦氏はそれだけではなく、蒔絵や書、絵画や工芸といったさまざまな分野で活躍しており、さながら江戸時代のレオナルド・ダ・ヴィンチだと言った人もあるそうだ。そしてこの人物が武蔵に「楽しむこと」や「美とは」といった、人間的な幅を与えたということである。武蔵は光悦や沢庵和尚などといった知識人との交流も深かったそうである。


 その光悦寺を訪れてみた。清閑な寺で、なるほどこういったところでこそ、芸術は生まれるのだなあと感じ入った。収蔵庫も解放されており、かつて教科書で見たようなものも見せてもらえた。


光悦寺入り口 光悦垣 光悦寺鐘楼 光悦寺より鷹峯


 このあと、京見峠へとCD90を走らせる。道幅は狭く、かつての街道のままのようである。かつては関所が置かれたほど、交通の要所だったらしいが、今はぽつんと一軒の茶店が残っているだけである。「営業してます」と書いてあったので、ちょっと立ち寄ってみた。タイムスリップしたかのような店には囲炉裏があり、建物も家具調度も、非常に情緒のあるものである。年配のハイカーさんがたくさんいたが、その一角に座り、ニシン蕎麦を注文する。しょうがとネギの香りがよく効いた、うまい蕎麦だった。ほかにはぜんざいやところてん、わらびもちなどがあった。そして峠のてっぺんからは、京都市街がよく望まれた。かつて丹波からここを越えた旅人は、ここから京を見て、さぞ感慨深い思いをしたことであろう・・・。


 さらにその狭い道を進んでいくと、「氷室分かれ」というところに着いた。「氷室」とは文字通り氷の倉で、ここから京都御所まで、氷が運ばれていたそうである。せっかくだから、ちょっとよってみた。どんづまりのような小さな集落であったが、氷室神社氷室跡に寄ってみた。この日は夏のように暑い日だったが、やはりひやっとした感じもするのは、そう思うからか?  冷蔵庫を開ければ氷が手に入る現在では想像もつかないが、夏場の氷は、相当貴重なものだったに違いない。ひなびた神社ではあるが、かえってありがたみを感じた。

京見峠にある 島岡剣石の歌碑 京見峠茶屋 京見峠より望む



 このあとは京北町、八木町、篠山市を通って帰宅するだけだが、途中、亀岡の出雲大神宮に寄った。以前から気になっていたところである。というのも、高校の時に古文の教科書に出てきており、ここを訪れた偉い上人が獅子と狛犬が逆を向いていたのに感激し、何とも有り難いことだと、涙を流しながら周りのものみんなに話していたところ、実はそれは子供のいたずらで、上人の感激の涙は無駄になってしまった、というストーリーである。

 事の真偽はともかく、そんな有名なところのそばを通りながら、素通りするのは申し訳ないと思い、参拝した。出雲というだけあって縁結びに御利益があるらしく、熱心に拝んだり、おみくじに見入っている女性が、たくさんいた。


氷室神社 氷室跡 出雲大神宮@ 出雲大神宮A


 ここから先は、家に向かってただひたすら走る。今回は神社仏閣巡りになってしまったが、たまにはこんなのもいいだろう。何となくすがすがしい気分で家路についたのであった。




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