テンカラ 初挑戦!




 9月も残りわずかになってくると、今年の渓流釣りももう終わりだなあと実感する。例年のことだが、今年も私の竿を曲げてくれた山の魚たちを思い出すと同時に、改めて感謝の念を思い起こす。たった一度、針の仕込まれたエサに食いついたがために命を落としてしまった魚たち、 私に食され私の体の一部やエネルギーに変えられてしまった魚たち、とっても感謝しております。でも感謝はしているのですが、反省することなく来年もまた、あなた方の一族を同じ目に遭わせてしまうことと思います。その節はあしからずお許しくださいませ。なお、さらにもう一言言わせてもらえましたら、できるだけ大きな方から、私のエサに食いついて、竿を大きく曲げてくださいませ。どうかよろしくお願い申し上げます。

なんともまあ、罰当たりな奴やなあ…、ワシっちゅう男は。




 今年の渓流釣りは、あまり良くなかった。釣りどうこうという以前に、なかなか暇がとれなくて、釣行回数がとても少なかったのである。例年なら北陸遠征も何度かするのだが、今年は家族キャンプのついでにちょっと竿を出したぐらいで、じっくり釣りをしたという実感はない。また新しい釣り場を開拓することもなく、何泊も野宿しながらといった大がかりな釣りもしていない。ひとえに子供の行事が増えて、そちらを優先せざるを得なかったのが原因である。当然のことながら塩焼きや甘露煮にして食した魚も、きわめて少ない。手や目を通しての、あの震えるような感覚も少なければ、あのタンパクなのにコクのある、舌を満たす感覚にも乏しい。そういった意味で、あまり良くなかったシーズンを終えようとしていた。


 ところが神様はよくみていらっしゃるもので、このHPの掲示板を通してふとしたきっかけから、テンカラなるものに手を出すことになってしまった。テンカラとは同じ渓流釣りには違いないが、エサを使わずに毛針を使い、魚をだまして釣るといった釣り方である。かといって今はやりのフライフィッシングではない。フライはいかにも上品な英国紳士の釣りで、釣りのスタイルやファッション、セオリーなど、どこをとってもオシャレな釣りである。ということは、私には一番似つかわしくない釣りということである。それに対してテンカラは日本古来の釣り方で、職漁師が行っていた方法である。だから編み笠をかぶり、竹竿を振り回し、足は足袋…なんて姿が似合いそうである。つまり私にはピッタリのイメージである。ただ職漁師がやっていた釣り方ということは、プロの技である。 職人技をドシロウトが真似してみても、所詮は「生兵法はけがの元」である。 釣れないぐらいならまだいいが、非常に危険の多い渓流釣りである。ほんまに怪我してしまうかもしれへん、という気がして、なかなかやってみようという気が、長いあいだ起こらないでいた。


 実は数年前に親父の友人が、テンカラ道具一式をくれていた。その人は自分はもう高齢なので渓流釣りはできないから、ワシの道具をお前にやるということで、竿を始めとして道具一式をくれた。だからそれがきっかけとなって、テンカラには興味を持っていた。ただ難しい釣りだという先入観と、あんなちゃちな毛針に、ホンマに魚が食いつくんかいな? という疑問も持っていた。本物のエサで釣っても大漁だったのは数えるほどである。それもいかにも脂がのって、柔らかくて魚が好みそうなブドウ虫やイクラでも、なかなか好釣果は少ない。そしていかにもホンモノに似せたフライ用の毛針ならともかく、全然虫に似ていなくて、ひょろひょろとした毛が生えているだけの針にかかるなんて、よっぽどアホな魚だけだろうという思いを、頭からぬぐい去ることができなかったのである。


 ところが前述のひょんなことから、そのテンカラなるものを愛好する人々と交流を持つことになり、まるでアリ地にはまってしまったというか底なし沼に引き込まれてしまったというか、一緒に今年度の納竿会に行くことになってしまった。「会則なし会費なし会長なし」ということだけど、逆に言えば、誰でも近づいた者は会員にひきこむといった蜘蛛の巣のような組織かもしれない(笑)。  まあ、毒をくらわば皿まで! 意を決して参加した。



 9月21日、夜明け頃から鳥取県東部の千代川の、とある支流に挑む。中国山脈のかなり奥深いところで、時々熊も出没するところらしい。中国山脈の山陽側の河川は時々行くが、山陰側はあまり行ったことがない。今回は全く初めての川であった。

 車を停めた場所から川底にむかって谷を降りていく。広葉樹の大木があちこちに見られ、川の豊かさが森からも感じられる。途中、栃の実がたくさん落ちていた。

滝…絶好のポイント! KAOこと 私です。



 まず大きな滝までたどりつく。この滝は有名らしく、あちこちに看板があって迷うことはなさそうである。だがこの滝は素通りして、次の滝へといそぐ。今回の同行者はこのあたりを庭のようにしていて、すみからすみまで知り尽くしている。その人が見向きもせずにパスするのだから、ここでは釣れないのであろう。


 やっと釣り始めるが、どうもテンカラは難しい。 上も横も木が生い茂っているなかで、長ったらしい釣り糸を振り回さなければならないテンカラは、どうもややこしい。なんども木の枝などにひっかけては、そのたびに仕掛けを整えて…。普段はボサのなかでは短い仕掛けにして、いわゆる提灯釣りにしているので、どうも感覚が違う。そしてなにより、思ったところに毛針が飛んでいかないのだ。テンカラはドシロウトだがエサ釣りは毎年しているので、人に自慢できるほどではないが、ズブのドシロウトではないつもりである。だからだいたいどのあたりに魚がいそうだというのは、なんとなくわかるつもりである。だからこそかえって忌々しい! あそこに仕掛けが入れられればきっと釣れるに違いない、と思うのだがそれができない。何度もやっているうちに、枝に仕掛けが絡まる。その繰り返しだった。そのうち同行者の先輩が見事なイワナを釣った。そしてアマゴを…。初めて現実に毛針でイワナが釣れるのを見た。でも疑い深い私はこの目で見ても、自分が釣るまではまだ信用していない。


 だが、あちこちのポイントを教えてくれて的確にアドバイスしてくださったおかげで、ついにその瞬間が来たのである。魚体自体は見えなかったのだが、なぜか見えたのである。矛盾した言い方だが、今思い出してもそんな気がする。そしてコツッとあわせたら針に乗っていて、それはみごと22センチのイワナだった。人生におけるテンカラ第1号のイワナである。

  テンカライワナ 第1号!
      こちらはアマゴ。

      同じくテンカラ第1号です!



 今までイワナは何本も釣っており、その中でも思い出深い奴はいまだに記憶の川に生きているが、どうも違う。なんというのかなぁ、「充実感」とか「ときめき」なんて月並みな言葉で言ってしまったらそれだけだけど、エサ釣りでは味わえない何かがあるような気がした。 たしかに結果は、同じ一匹のイワナには違いない。でもそこには、「数」や「型」といった数字に表されるものだけではなく、数字には表れてこないプラスアルファが、きっとあるに違いない。おそらくそれはメンタルな、つまり精神的なものだと思うけど、実際そのようなものが一番大切なのかもしれない。たとえば食事がそうであるように。つまり、数字で表せる栄養分を摂取することだけならいくらでも方法があるだろうけど、それにともなう団らんや会話、今日の自分自身をねぎらう一杯の酒…。 これらのほうが本当はより人間的で、心の糧、心の栄養となるのではないのだろうか? そのようなものをテンカラ第1号から感じた。な〜んて偉そうなことを言ってるが、「たかが1匹釣ったぐらいで、なにをほざいとんねん!」 とお叱りにならないように…。まあ、それだけ嬉しかったと受けとめてくださいね。


 その後さらにもう一回り大きい24センチ級のイワナが釣れ、昼食時に刺身となった。 午後の釣りでは幅広の大きなアマゴが釣れて、テンカラ初釣行としては、我ながらすばらしい結果に終わった。


人生における「テンカラ第1号イワナ」を釣って。




 昼食時には河原で芋煮を準備してくださっており、それをいただいた。イワナやアマゴの刺身骨せんべいも。みんな気さくな人ばっかりで、初対面の気がしなかった。 でもひょっとしたらこれも周到に用意された作戦かもしれない(笑)。 とりもちのようにくっついてしまい、もう2度と生きて戻れることはない世界に足を踏み入れたのだろうか…。

 なんていうのは冗談だが、冒頭に「今年の渓流釣りは、あまり良くなかった。」と書いた。でもそれを撤回します。釣りは釣果だけではなく、釣りを通して楽しむことが大切なのだと思う。そして突き詰めれば結局は、人との出会いなのかもしれない。今シーズンは最高のシーズンであった…。


刺身になった魚たち…。幸福(口福?)




 


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